公園へ行こう!楽しい広島市の公園 広島市の緑地の歴史




広島市の緑地の歴史


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都市の緑化は植え育てることから始り、長い歳月と手厚い保護が必要ですが、これは市民の理解と協力があって、はじめて実現するものです。ここに戦後間もない頃、焦土と化した広島市の市街地の緑を、どのようにして甦らせたかを紹介し、都市緑化に対する一層の理解と協力を訴えたいと思います。

1 戦前の街のみどり
  城下町として発展した本市には古くからの屋敷が多く、また明治以降は軍都として栄えたこともあって軍の施設用地が多くあり、これらに付属した豊かな緑が市内の随所にみられ、周辺の山々や太田川の清流と相まって、美しい市街地を形づくっていました。

2 原爆による災禍
  緑豊かな市街地も昭和20年(1945年)8月6日の原子爆弾により、爆心から半径2km以内の建物や樹木はことごとく焼失し、半径4km以内の家屋の大半が倒壊し、樹木は熱線や爆風により、幹を焼かれ枝葉を吹き飛ばされる被害をうけ、緑のまったく失われた灰色の都市となってしまいました。

3 緑の再生
  原爆による荒廃から立ちあがった広島市は焼野原になった市街地に一本でも多くの樹木を持ち込む努力をしてきました。まず昭和23年(1948年)に、壊滅した比治山公園を広島県の援助による砂防事業により復旧整備しました。 当時植樹したサクラなどが現在立派に生長しています。 また昭和25年(1950年)ごろから街路樹整備にも拍車がかかり、街路ごとに特色を持たせた並木づくりが行われました。

  例をあげますと、相生橋から紙屋町にかけてはサルスベリ並木、京橋町のサクラ並木、新川場(現在の並木通り)のサワクルミ並木、牛田町のアメリカフウ並木、基町のトウカエデ並木等、数多くの並木づくりが行われました。 しかし、樹木が土地にあわなかったり急激な都市化現象に適応できなかったりして、現在ではその一部をとどめるのみとなってしまいました。

  昭和32年(1957年)から昭和33年(1958年)にかけて、「夢みる20年後の広島」をキャッチフレーズに供木運動が展開され、市民および市周辺の4郡23町民の協力で平和大通りや平和記念公園そして中央公園の緑化が行われました。 平和大通りの緑地帯には昭和32年(1957年)に高木約1,200本、昭和33年(1958年)には高木約1,300本、それに低木多数の供木がよせられました
これらの木々は立派に生長し現在、平和大通りの緑を形成し、夏には緑陰を提供し、冬には緑が街の寒々しさを柔らげるといった具合いに街行く人々に四季を通じて恵みを与えてくれています。